1162年、ミラノは神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世の軍隊に破壊された。しかしすぐに復興し、ロンバルディア同盟を結成して、1176年にはレニャーノの近くでフリードリヒ1世を打ち破った。この勝利でミラノは新しい繁栄の時代を迎えた。中世後期とルネサンス時代にはミラノはヴィスコンティ家とスフォルツァ家の公国になった。1277年、貴族のヴィスコンティ家が、領主のデッラ・トッレ家からミラノの統治権をうばった。ヴィスコンティ家の支配は1447年まで続いたが、特に初代ミラノ公ジャン・ガレアッツォ(1351~1402年)の時代には繁栄を極め、黄金時代を迎えた。
1450年には軍人フランチェスコ・スフォルツァが権力を握り、ミラノの統治者としての地位を固めた。続いて息子ルドビコは学芸の保護にも熱心でレオナルド・ダ・ビンチをミラノに迎えた。しかし、15世紀の北部イタリアの拡張時代の後の1500年、フランス軍がこの町を占領。このときレオナルドもミラノを去るがのちに再訪、約二十数年の滞在はこの地にミラノ派とよばれる画派を生んだ。スフォルツァ家はフランス、スイス、オーストリアにあやつられながらも支配をつづけた。1535年にスフォルツァ家の血筋が途絶えると、ミラノはスペインの統治下にはいった。18世紀初頭のスペイン継承戦争後、1714年のラシュタット条約によってオーストリア・ハプスブルク家に帰属することになった。ナポレオンは1796年にオーストリア人を追い出し、ミラノをチザルピーナ共和国の首都とした。
1815年、ロンバルド=ヴェネト王国としてオーストリアの手に戻ったミラノは、イタリアの抵抗運動の中心地となり、1848年には短期間だがオーストリア人を追放した(ミラノの5日間)。1859年、フランスの援助を受けたサルデーニャ王国が、ミラノをオーストリアから解放した。1861年にミラノはイタリア王国に加わり、引き続き発展した。1859年の第二次イタリア独立戦争の結果イタリア王国の一部に編入された。
第二次世界大戦では、イタリアが降伏した1943年以降にドイツ軍及びサロ政権の統治下に入ったため、イギリス軍やアメリカ軍をはじめとした連合国軍による激しい爆撃をうけたが、戦後急速に発展して復興をとげた。ミラノは文化的にも戦後のモダン・デザインの発信地として知られ、国際デザイン美術展であるミラノ・トリエンナーレが開催されている。
参照元:Wikipedia「ミラノ」
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1971年にヴァレンチノ・ガラバーニがミラノにブティックを開店、これを機にイタリアン・ファッションの中心地はローマから徐々にミラノへ移っていくこととなった。
アメリカのダウ・ジョーンズらの2013年の調査によると、世界35位の金融センターと評価されており、イタリアの都市では1位である[3]。
参照元:Wikipedia「ミラノ」
ミラノ・コレクションなどで知られるように古くから服飾・繊維産業などファッション関連の産業が盛んな土地柄であるが、近年は航空産業や自動車産業、精密機器工業なども発達しておりイタリア最大級の経済地域を形成している。
2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第41位の都市と評価されており、同国ではローマに次ぐ第2位であった[2]。
参照元:Wikipedia「ミラノ」